どうして僕なんだ。
深淵と呼ぶに相応しい暗闇と瘴気が広がるその場所は、長く険しい旅の果てにようやくどり着いた魔王城の最深部。
煌々とした松明の灯りのみが微かに辺りを照らす中、おそらく最後であろう巨大な扉を前にして勇者シャロットはそんなことを考えた。
そもそもシャロットが勇者と呼ばれるようになったのは、幼少期にある事件を切っ掛けにして人間離れした身体能力に目覚めたことに始まる。
それ以来、国で信仰されていた女神の使いと称えられ、魔王を倒すという目標のために全てを捧げ今に到るわけだが、所詮元を正せば単なる人。 自然、扉に伸ばした手が無意識の内に震えた。
掌を押し当てた黒く禍々しい鉄の扉は、手袋越しに分かるほどに重く冷たい。
どれくらいそうしていたか、不意に手の甲に暖かさを感じ目線を向けた自分の手の上には、これまで共に旅をしてきた三人の仲間、メルティナ、アルフレッド、クリスリーネの手が添えられていた。
三人はゆっくりと、それでいて力強く頷く。
そう、自分には信頼する仲間たちがいる、この仲間たちとなら例えどんな困難があっても負けはしない。
自分を信じて待ってくれている人々の為に、何よりかけがえのない仲間たちの為にも、魔王を倒し平和を取り戻す。
シャロットは深く呼吸を整える、体の震えは既にない。
「……よし、じゃあ行こう!」
そして勇者シャロットは、掛け声とともに勢いよく最後の扉を開いた。
「え、あいつまだ起きてないの?」
「そうなんですよ~、それで物は相談なんですけど、私これから城下の特売市に行かなきゃなので、メルティナさん代わりにお兄ちゃんのこと起こしてあげてくれませんか?」
「え、ええ、いいわよ……」
「ありがとうございます! ほんと助かります!」
(でもあいつって一回寝入ると中々起きないのよね……)
走ってゆく勇者の妹の背中に手を振りながらメルティナは内心憂鬱な気分になったが、
「はぁ、でもこうなった以上は仕方ないか、……正直予想はしてたし」
と、気を取り直して家に入ることに。
リビングから階段を上って、目的の部屋の前までやって来るとドアをノックする。 当然返事はない。
「シャロ? 入るからね」
一応そう一言断りを入れて足を踏み入れた先は、カーテンが半開きとなった薄暗い空間。
最低限の家具が置かれた他には、壁に使い古されたマントと、そして剣が吊り下げられただけの質素な部屋だ。
その部屋の隅に置かれたベッドで、銀髪の少年が静かに寝息を立てていた。
「起きなさいよ、この寝坊助勇者。 あんた今日がどれだけ重要な日か覚えてないの?」
ベッドに近寄ったメルティナは問いかけながら、少年の頬をペチペチとはたく。
が、何事も無かったかのように寝息を立て続ける少年に、「ったくこいつは……」と、呆れたように溜息をつき、
それにしても、と目の前の少年の顔をまじまじと見つめた。
銀色の少し長めの髪に優しげな顔、そして一見華奢に見える身体はとても世界を救った勇者には見えない。
しかし、魔王を含め、幾多の強力な魔物達を直接的に葬ってきたのは目の前の少年に他ならない。
勇者の仲間とは言え自分とあの二人の役割は、所詮は後方からの支援に過ぎなかったのだ。
それを示すように寝巻の下から時折覗かせる、華奢でいながら実戦の中で鍛えられた筋肉質な体に思わず息をのむメルティナだったが、
「……って」
なぜ自分がこんな昼前から幼馴染の体を観察しなければならないのだ。 不意にそう自分への苛立ちを感じ、
首を左右にブンブン振って気持ちを切り替えると、窓に近づきカーテンを一気に開いた。
夢うつつの中でシャロットは、瞼越しに感じた眩い光に思わず顔をしかめる。
シーツに顔を埋めてそれから逃れようとしていると、
不意に地面が消失したかのように体が重心を失い、そして全身に衝撃が走った。
「うわぁっ!?」
そう情けない声を上げたシャロットは、寝ぼけ眼のまま何事かと顔を上げる。
するとそこには、シーツを持ったまま腰に手を当て仁王立ちする、幼馴染のメルティナの姿があった。
どうやらメルティナがシーツを引きはがした拍子にベッドから落ちたようだった。
「……あ、おはよう…、メル」
「ん、おはよ。 ……って、ちっがーう!! 遅い!あんた今日はお城で魔王討伐の凱旋式があるの忘れたの!?」
最初は寝ぼけ眼でぼんやりとした表情を浮かべていたシャロットだったが、次第にその顔が強張り青ざめてゆく。
「凱旋式……、そうだよメル! ああっ!もうあんなに日が昇ってる! 大変だよメル!もう昼前だよ!」
慌てて窓に駆け寄ったシャロットは、窓の外とメルティナを交互に見返しながら叫ぶ。
「はいはい、今から普通に準備して馬車で飛ばせば、昼過ぎには城下に付くから騒ぐな」
そのあまりの狼狽えように怒る気力も萎えたメルティナは呆れ顔で言った。
「…わ、わかった。 よ、よし、それじゃあ取り合えずすぐに着替えるから!」
シャロットが大慌てでタンスの服をあさり始めたことを確認し、部屋を出ようとするメルティナだったが、何か思い出したようなそ振りを見せ踵を返す。
「あ、そうそう、とうぜん着て行くのは旅用の服よ、魔王を倒してからの凱旋なのに普段着じゃカッコつかないでしょ?」
「…も、もちろん分かってるよ!」
新品の普段着をサッとタンスに戻したシャロットに、メルティナはやれやれと肩をすくめ部屋を後にした。
簡単に着替えを済ませ下の階に降りると、既にメルティナは朝食を準備して待っていた。
「あれ?そういえばリィンは?」
リィンとはシャロットの妹・リンセルのあだ名だ。
シャロットには他に姉がいるが、姉は普段は騎士として城に詰めているため、実質妹と二人暮らしだった。
「リンセルなら城下で特売がー、ってさっき出かけて行ったわよ。 さ、私たちも急ぎなんだからちゃっちゃと食べちゃいなさい」
「メルはもう朝は……、そりゃ済ませたよね」
「当たり前でしょ、あんたみたいな寝坊助とは違うのよ」
シャロットが朝食を摂っている間、メルティナは残された家事をてきぱきこなしてゆく。
昔から今日のように、家事ができる者がいない時にはメルティナが家に来て、代わりを務めていたため今では慣れたものだ。
「そういえば、メルはこの先どうするかもう決めてるの?」
家事をしているメルティナに、シャロットは以前から気になっていたことを尋ねてみた。
「この先?」
「魔王を倒すっていう目標は果たした訳だし、次は何するのかなって」
「次、か……」
問われたメルティナはしばし考えるそ振りを見せる。
「……ちなみにシャロはどうなの?」
しかし考えた末、問いには答えずに、そうシャロットに切り返すのだった。
「え?あー、えーっと、僕は……」
「魔王を倒すことに夢中で後のことは何も考えてなかった、でしょ」
いきなりの質問に戸惑うシャロットに、メルティナはしたり顔で先回りする。
「ぐ、図星だ……、メルティナには僕のこと何でも分かっちゃうんだね……」
「ま、まぁね、伊達に十何年も一緒に居るわけじゃないしぃ?」
フフン、と得意げに鼻を鳴らしながらも少し照れくさそうなメルティナは少しの間を置いて、
「そ、それだったらさ……」と、やや声のトーンを落として切り出す。
「うん?」
「…………やっぱりいい」
が、一転して口をつぐんでしまった。
「?」
メルティナが何を言おうとしたのか気になったシャロットだったが、自身が急ぎの身であることを思い出し、止まっていた食事の手を再び動かし始めた。
食事を済ませ、装備のつけ忘れが無いかを確認する、大丈夫だ問題ない。 そして最後に長旅ですっかり使い古されたマントを羽織った。
「忘れ物ない?」
「大丈夫だよ、じゃあ行こうか」
言って玄関に向かうシャロットだったがその背中に、
「あ、あのさ!」
と、意を決したようにメルティナが声をかける。
「私だったら、その……、シャロのやりたいことが見つかるまで、一緒に居てやるから……」
伏し目がちに、しどろもどろに言葉を詰まらせながらも声を絞りだすメルティナ。
その様子に、よく鈍感だと言われるシャロットでさえ何かを察したように、
「えっと、その、ありがとう……?で、いいのかな?……」
戸惑いながら答える。
しかしメルティナは顔を伏せ、微かに肩を震わせたまま何も言わない。
少しの間沈黙が流れたのち、
「あの、メルティナ?」
心配に思ったシャロットが名前を呼んでメルティナの肩に触れようとすると。
「うるさいうるさい! 私先にいってるからね!」
急に顔を上げたメルティナは真っ赤な顔をして家から出て行ってしまった。
あとには混乱した様子のシャロットだけが残されたが、いつまでもそうしている訳にはいかないため、一旦気持ちを切り替える。
これから自分は何を目指すのか、どこに行けばいいのか。 それはまだ分からない。
しかし、それを見つける為にも、ひとまずはこの冒険に決着を付けねばならない。
その決意を胸に、シャロットは目の前の扉を開いた。