歩けど歩けど全く同じ景色が繰り返し、無限に終わりが無いかのような夕闇の路地を歩き続ける。
既にそうし始めて数時間は経つはずだが、空には一向に沈む気配のないギラギラとした夕日が燃え、辺りを赤く染めていた。
そう、今現在俺たちはこの赤い世界から出られなくなっているのだ。
今にして考えると、発端はその日の朝には既に始まっていたのかもしれない。
***
初夏より少し蒸し暑さが増しつつ、蝉の鳴き声が響き始めた今は7月の上旬。
梅雨真っ只中な割には入道雲を浮かべた空は青く、眩い太陽光が降り注ぐ午前のことであった。
絶好の外出日和とも言える空模様の中、俺はというと机の上に積みあがった資料の山に朝から釘付けになっている。
資料の内容は様々あり、曰く”口の裂けた女”の話やら”見ると死ぬテレビ放送”やら、”降霊術を用いた100%当たる占い”に、”名前を聞くと四肢を刈り取りに来る少女の亡霊”に、果ては”海に潜む巨大生物”等々……。
それらに共通するのは、この世界の常識としては存在しないとされている”もの”ばかりであり、そしてそのような物を調べる理由は端的に言えば、この”人間界からの脱出”の為であった。
というのも本来はこの人間界、もとい『うつつ界』には”魔力を使えるようにする為の陣の設置”を目的として派遣されて来た。
だが来て少し経った頃に出くわした、ある『魔の類』の影響でこの世界に閉じ込められ、元の場所に戻れなくなってしまったのだ。
”俺たち”は元来た世界に帰りたい。 この見ず知らずの人間界で怪異魔障に怯えながら、来るかも分からない助けを待ち続け、最悪こちら側に取り残されるなど断じて御免だ。
そして、この状況に到った原因は魔の類に端を発する事なのだから、解決法もまたそこにあると考え、それ以来手あたり次第に魔の類に関する情報を調べ始めて今に到る、というわけだ。
そんな調子で今日も朝からこうして延々と、机の上に積み上げられた資料の山を読み耽っていたのだが、唐突に視界の端に現れた湯呑によって数時間ぶりに現実世界へと意識が引き戻される。
少し驚いて横に目をやると、気の弱そうな山吹色の瞳と目が合った。
「あ…ごめんね、驚かせちゃった……?」
そう申し訳なさそうな表情を浮かべて言ったのは、”袖のない新緑色の着物を纏った、栗色の髪の少女”、『縁魔小詠』であった。
「別にいい、いつも助かる」
「うぅん、正直あんまりお役には立ててないけどね、調べ物もほとんど『梨句』が一人でやってるし……」
「そうでもないさ、こうして話し相手になってくれるだけでも随分助かってる」
「…え、えへへ、そう言ってもらえると手伝いに付いて来た甲斐があるかな」
と、頬を朱に染めはにかむ小詠は、元の世界では住んでいる場所が近く、又こちらへは調査の手伝いのために一緒に来てくれた、謂わば隣人兼助手とでも言ったところだろうか。
しかし、隣人ではないが助手と呼べる存在は、小詠の他にもう2人居ることを忘れてはならないだろう。
机を挟んで左右から同時にかけられた、「おい(ちょっと)」という不満げな声によって、俺は改めてそのことを確認させられる。
「この私を除け者にして何を楽しそうにしておるのじゃ、私だって話し相手になっているのに、そ奴だけ礼を言われるなど…、全ッ然! 全くもって納得がいかぬぞ!」
そうジトっとした眼でこちらを見据えるのは、”見るからに活発そうな真紅の瞳、丈の短い赤い着物を纏い、黒髪を左右で二つに結んだ少女”、『焔魔七火』と、
「そうですわ! このわたくしが直々に雑務の手伝いをしているのですから、わたくしのことも褒めるべきですわ! いいえ、褒め称えるべきですわ!!」
”肩を大きく露出させた青い着物を纏い、ややくせ毛がかった長い金髪と、猫のような大きな青い瞳の少女”、『円魔いのり』。
七火といのりとは、彼女らが幼少の頃に世話係という名の遊び相手を任されていた間柄だ。
現在はその役目も終わっているのだが、それをお嬢様育ちの二人に言っても聞く訳がなく、また自分自身の慣れという事もあり、なし崩し的に今もかつての関係性のまま二人と接している。
「むむ、なんだか面倒くさそうな表情をしていますわ」
「……そんなことは、ありません。 もちろん”七火お嬢様”と”いのりお嬢様”にもいつもお世話になっていますよ」
「…あっ! 今一瞬言いよどんだのじゃ! 絶対に気のせいなどではないぞ!」
…先程の言葉は本心だが、たまに面倒くさく感じる時はある。 特に今のような場合に。
しかしこうなった以上、なんとか取り繕わねば余計に面倒なことになるが、さてどうするか……。
「…….ま、まあまあ二人とも、梨句は私が話しかけた内容に対して答えてくれただけだから、もうこの辺で……」
と、そんな答えに窮している様子を見かねた小詠が助け舟を出してくれたのだが、
「依怙贔屓の泥棒ネコは黙っていてくださいまし」
「そうじゃ、部外者はすっこんでおれ、燃やされたいか」
「こっちに矛先向いた!?」
さて、そんな置かれた状況の割には穏やかな日々を送っていたところに、転機が訪れたのは七火の言葉がきっかけだった。
「梨句ー、退屈じゃー」
休憩中、さっき小詠が淹れてくれたお茶でのどを潤していると、力なく机に突っ伏した状態の七火がそんなことを言い出したので、俺は深く考えこともなくとりあえず釘を刺しておくことにした。
「ダメです」
「まだ何も言っておらぬじゃろうが!」
するとさっきまでの無気力状態はどこへ行ったのか、バッと勢いよく体を起こした七火がこちらを指さし叫ぶ。
「冗談です」
「くぁー! 生意気じゃ! 梨句のくせ生意気じゃ! 貴様、私をバカにしているのか!?」
「冗談で少しは退屈が紛れるかと思ったのですが」
「全っ然紛れぬわ!」
「ま、まあまあ七火ちゃん、お茶でも飲んで深呼吸して」
小詠に勧められたお茶を一気に飲み干した七火は、深く息を吸って吐き出す。
「……ふ、ふん! 邪険にしおって、そんなに私が嫌いか」
七火はそっぽ向いて口を尖らせて言った。
どうやらここ暫くの隠遁生活で相当に不安定になっているらしい。
「ちょっとからかっただけです、そろそろ機嫌を直してください」
「……じゃあ私の提案を聴くというなら、まあ打ち首だけは勘弁してやるかのう」
「…言ってみてください」
コホン、とわざとらしく咳払いをしてから七火は話し始めた。
「知っての通り、私たちはこれまで2ヶ月間に渡って元の世界に帰る方法を探してきた。 もはやこの世の全ての怪異魔障を知り尽くしたと言っても過言ではないじゃろう。 ……しかしじゃ!」
声を大にした七火は膝立ちになりながら、バン!と机に手を打ち付けた。
色々と突っ込みたい所はあるが、今は話を聞こう。
「だというのに未だ『かたす界』に帰ることは叶わず、内々に出来ることはもはや手詰まりと言える! 故にじゃ、これからは作戦方針を転換し、実際に外界に出て直接的にその手がかりを探すことを私は提唱したい! 漕ぎ出すのじゃ、あの大海に!」
そう言い終わった七火がビシッと窓の外を指さすと、小詠の「おおー」という歓声と拍手が慎ましく室内に響いた。
「ど、どうじゃ…….?」
打って変わって、七火は少し上目遣いに遠慮がちな様子で問うてくる。 こちらの指示に従う事がこの”うつつ界”に来る時に結んだ約束事だったからだ。
「確かに、お嬢様の仰る通りかもしれません」
この2カ月間家に籠って情報収集だけに終始してきた理由は偏に、このうつつ界に来たばかりの時のように無防備な状態で動き回り、そしてまた未知の魔の類に遭遇するのを避けたかったから、という理由があった。
しかし未だ”かたす界”に帰る手段は見つからず、おまけに予め貯蔵していた食料などにも限りがあるため、遅かれ早かれ買出しに出かける必要もある。
…まあ当の七火の本音は、ただ外に出てみたいだけなのだろうが今はそれは言うまい。
「それじゃあ……」
自信なさげだった七火の真紅の瞳が期待に満ちた。
…流石にこれだけ期待させて応えない訳にもいかないか。 それに一度目の魔との遭遇はただ運が悪かっただけで、いくらなんでもそう易々と何度も出会ってしまうものではない筈だ。
俺はまるでそう自分に言い聞かせるようにして首を縦に振った。
「やったー! 久しぶりの外じゃー!」
歓喜の声を上げ、嬉しそうにピョンピョンと飛び跳ねる七火。
「とはいえ、ここでは我々の力の大半は封じられ、今やただの人間同然になっていることをお忘れにならぬように、ですからくれぐれも油断は…」
「分かっておる分かっておる♪」
「……」
本当に分かっているのだろうか…….。
「むぅ、わたくし暑いのは嫌ですわ、なにもこんな日に限って外出することありませんのに。 それに今日は昼過ぎから土砂降りが来る、とわたくしの勘が告げていますわ!」
そんな嬉しそうにはしゃぐ七火とは対照的に、白けた様子のいのりが口を尖らせ言った。
「フフン、こんなに晴れておるのに雨など降る訳あるか、それに天気予報でも今日は丸一日晴れじゃ。 そんなに外が嫌ならば、お前は一人寂しく留守番でもしておるがよい、女狐には穴倉の中がお似合いじゃ」
「っ……か、かちんと来ましたわ…! 上等ですわ! この”瀑流の魔女”と呼ばれ恐れられた円魔いのり、頭の悪い山狸ごときに遅れは取りませんわよ!」
「あ、頭の悪い山狸じゃと…?」
怒りにワナワナと手を震わせた七火はいのりを指さし、
「だったらお前は卑しい濡れ狐じゃ!」
「こいつッ…、わたくしより後に生まれた分際で!」
「ちょっとしか変わらんじゃろうが!」
鼻先同士が掠めるほどの距離までにじり寄り、今にもつかみ合いになりそうな一触即発の雰囲気となる七火といのり。
「ちょっと、喧嘩はやめなって!」
放っておいて問題無いだろうに、律儀な小詠が七火といのりの間に慌てて手を入れて、
二人を引き離そうとしている。
俺はその様子を静観しつつも、危ないので机の上に置かれた湯呑を避難させるべく
そちらの方に目を向けた時、
ふと、積み重なった紙の山の一枚の資料に視線が釘付けになった。
吸い寄せられるようにして手に取ったそれは、”裏世界に行く方法”と銘打たれた、”鏡に関連した魔”についての資料のようだった。 その内容だが……、
『異世界に行く方法
一:全身が映るほどの大きさの鏡を用意する。
二:用意した鏡を直線状に100m以上開けた場所に設置する。
三:鏡の前で1時間以上待機した後、鏡から向かって正面に真っすぐ進む。
四:ある程度進んだら、6回道を曲がる。
五:6回目の道を曲がった時、誰も人がいない鏡の中の世界に行くことができる。』
……………。
内心馬鹿々々しいと感じた。
何処が馬鹿々々しいか? まず以って100m以上開けた場所に全身が映るほどの大きさの鏡を用意して、しかもその前で1時間以上待機する、
何の事前情報もなしに、そんな意味のない大がかりな行動を取る者など居るはずがないし、偶然にしてもこの条件を満たす状況が自然に起きるとは到底思えない。
したがって、この魔障は第一発見者が発生し得ない以上、これまで幾度となく目にしてきた作り話であろうことは容易に想像できる。 …が、
「……?」
見れば裏面に続きがあった。
『尚、その世界の住人には絶対に捕まってはいけない。 捕まると二度とその中から出られなくなる。 元の世界に戻る方法は、来た時と同じ順番で道を曲がり、最初の場所に戻ってから”鏡”に触れること。 ただし、………』
気が付けば、周囲は不思議なほどに静まり返っている。
俺は妙に激しい動悸を押し殺し、固唾を呑んでその先を読もうとした、その時。
「遅いぞ梨句!」
「早くしないと先に行きますわよ!」
玄関先から、いつの間にか支度を整えていた七火たちの催促の声が聞こえ、ハッと我に返った俺は。
「……ま、ただの作り話さ」
と、手にした資料を紙の山に戻し、急いで玄関へと向かった。
靴を履き、薄暗い玄関を出ると、そこには眩い太陽光が一面を照らす真夏の景色が広がっていた。
照り返しに思わず目を細め、舗装された道路から熱気と共に陽炎が立ち昇る様は見ているだけで気が滅入りそうだ。
「うむ、実によい炎天下じゃ、やはり夏はこうでなくてはのう」
「うぐぅぅ、暑いですわ~、やっぱり無理ですわ~…」
「どうしても無理な時はおんぶしてあげるから、もうちょっとだけ頑張ろ…?」
しかしまあ、楽し気な七火たちの姿は、たまにはこういうのも悪くないと思うに十分なものだった。
そんなこんなで俺たちは炎天の下、駅まで歩いて25分、電車で5分かけて街の中心部までやって来たのだった。
<追記中>