1.うつつ奇聞譚 【鏡ノ魔】 後篇

 

 【鏡ノ魔 前篇】 の続き

 

 …陽炎を何かと見間違えたのかもしれない。

 内心訝しみながらもそう結論付けて、再び歩き出そうと視線を前方に向ける。

 すると、既にそこにいのりと小詠の姿はなかった。

 

「んあ? すぐそこに居たのに、あやつらどこへ行ったのじゃ」

 二人は道を曲がり死角に入ったのだと思い、すぐ近くの曲がり角へと小走りで向かう。

 しかしそこにも二人の姿はない。

 まずい、はぐれたとしたら厄介だ。

「お嬢様、走りましょう」

「こ、こら待たぬか」

 小走りで辺りを見て周る。

 そんなに遠くには行っていないはずだが、やはり二人の姿は見当たらない。

「おーい、いの…濡れ狐ー! 小詠ー!」

 これまた火種になりそうな言葉を口走る七火にギョッとさせられるが、ただ考えてみると案外いい手かもしれない。

 いつもならこれで、いのりが飛んできて七火と喧嘩に…。

「…………」

「おかしいのう、あやつら本当にどこに行ったのじゃ」

「仕方ありません、目的地は同じなのですから取り合えず駅まで行ってそこで落ち合いましょう。 恐らくあの二人もそう考えるはずです」

「うむ、そうじゃな」

 沈みかけた西日を目印に駅を目指して、再び脚を動かし始めた。

 

 

 歩くのを再開して20分ほど経っただろうか。

 歩けど歩けど駅はおろか、線路にすら辿り着かない。

 またこの間、誰とも一切すれ違っておらず、人がいる気配も感じない。

 周囲には、どの建物にも灯りは付いておらず、微かな大気の音と、自分たちの足音だけが辺りに響く。

 まるで本当に誰もいないかのように、とても静かだった。

「なあ梨句、あの建物さっきも見た気がするのじゃが……、よもや同じ所をぐるぐる回ってはおらぬか……?」

 仮に迷ったとしても、これだけ歩いていればどこかの線路に出てもおかしくないはずだ。

 しかしそれどころか七火の言うように、先程から既視感のある道を延々と歩き続けている。

 そして何より不可解なのは、西の空に浮かぶ夕日が一向に沈まないことだ。 さっきと変わらぬ位置で、ギラギラとした陽光が無人の街並みを赤く染めている。

「なんだか不気味じゃ……」

 七火は不安そうな声でか細く呟いた。

 

 

 それからさらに1時間近くは歩いた。

 疲労から会話を交わすこともなく、お互い無言のまま黙々と歩を進めていた。

 それだけ経っても夕日はまだ沈まない。

 一体、何が起きているのか……? もはや自分たちがどの地点に居るのかもよく分からない。

 そこに加えて、土とは違い路面を舗装しているアスファルトは熱をため込む性質らしく、正面から照りつける灼熱の陽光と共に地面からの熱気にも汗ばみ、容赦なく体力が奪われてゆく。

 皮肉にもその状況を生み出している沈まない夕日のおかげで、何とか方角だけは掴めている状況ではあるのだが……。

 ただこうなってくると気掛かりなのは七火の体力だ。

 俺は立ち止まり、重く不規則な下駄の音がする後方に振り返る。

 辛そうな表情を浮かべる七火の目はうつろで、見れば汗もあまりかいていないようだ。

 振り返ってからやや間を置いてようやく目が合った。

「……な、なんじゃ?」

「お嬢様、すこし休みましょうか」

 

 

 日の照っていない建物の陰に移動し七火を座らせる。

 それから肩に下げていた袋から半分くらい水の残った水筒を取り出し、七火に手渡そうとした。

「うぅ……」

 だが七火は自分が足を引っ張っていると思ってか、水を受け取るのを躊躇うように苦い表情をして顔を伏せた。

「俺はまだまだ余裕なので遠慮しないでください」

「し、しかし…」

「それに貴女に倒れられたら、それこそ元も子もありませんよ」

「…うん……、わかった。 あ、ありが、とう……」

 いつになくしおらしく、七火は水筒を受け取った。

「ん…? なにを不思議そうな顔をしておるのじゃ…?」

 そう言った七火の表情が怪訝そうなものに変わっている。

「いえ、素直に礼を申されるなど珍しい事もあるものだと意外に思いましたので、つい」

「ふ、ふん、私だってありがたいと思えば礼くらい言う」

 七火は不満げに口をとがらせて言った。

「ふふ、そうですか」

 ひとまずこうして会話できるだけの元気があるようで安堵する。

 ただ体力という時間制限がある以上、あまり悠長にしてもいられない。

 何とかこの状況を打開する方法を考えないと。

 七火の体力が回復するのを待つ傍ら、一旦周囲の様子をよく観察してみることにした。

 

 見渡す限りの周囲には大小様々な大きさの背の高い建物が建ち並んでいる。

 その内のいくつかに見覚えがある、恐らくさっきから何度も同じものを目にしているのだろう。

 それらの建物のいずれにも灯りはついておらず、やはり自分たちの他に人がいる気配はない。

 微かな大気の音と、自分たちの靴の地面に擦れる音だけが辺りに響きとても静かだ。

 そしてそれら赤く染まった背の高い建物が密集して視界が阻まれ、地面から陽炎が立ち上る様は、まるで炎の迷宮の様であった。

 他にも何か見るべき所は無いかと目を凝らす。 すると店先に掲げられた、看板の文字に目が行った。

 看板には妙な文字が書かれており一瞬混乱させられるが、どことなく見覚えがある。

 違和感の正体はすぐに分かった。

 …鏡文字になっている?

 他のものはどうかと、さらに視線をさ迷わせる。

 見ればあちこちに掲げられた看板、子供の形を模した安全標識や、すぐ近くの壁の張り紙など。

 そこに記された、ありとあらゆる文字が反転して鏡文字になっていた。

 今起きている一連の事象は、魔の類による怪異魔障と考えてまず間違いないだろう。

 ……同じ道を繰り返させることに加えて、環境を『鏡』合わせにする力を持った魔の類。 この2つの能力にどのような相関性があるのか。

 繰り返し、鏡合わせ……、”鏡”……?

 ここまで考えて、家を出る直前に読んだ資料のことを思い出す。

だが確かあの資料には、『直線に100メートル以上開けた場所で、全身が映るほどの大きな鏡の前で一時間以上待機する』、などという実現不可能な条件が書かれていた筈。

 そんな条件をいつ満たした?

 今のこの状況がその魔により引き起こされているという確証が得られなければ、これから取るべき全ての行動がまったくの見当違いなものに成りかねないため、動きようがない。

 腕組みをして建物の日陰の範囲内を行ったり来たりしながら、思い当たるフシを探して頭を回転させる。

 全身が映るほどの大きさの鏡の前で、一時間待機するなど……。

 ……いや待て、”全身を映し出すもの”の正体はともかく、長時間待機する機会ならあった。

 あの雨宿りをしていた時だ。

 ならばあの場で、俺達の姿を映し出していた”鏡に相当するもの”は……。

 あの”店先のショーウィンドウ”か。

 姿を映すものなら何でも鏡として認識される、ということか。 それなら怪異魔障の発動条件の難易度は大幅に下がる、なんと厄介な……。

 

 だが何にしても攻略方法は分かった。

 家を出る直前に見た例の資料には、元来た方向・元来た道順を辿り、鏡に触れれば出られると書かれていた。

 あとは七火の体力が回復するのを待って、それからすぐに資料にあった手順通りに動き、この忌々しい空間から出る。 それだけの簡単な話だ。

 

 ・ ・ ・

 

「よし、もう大丈夫じゃ」

「本当に大丈夫ですか? まだもう少し休まれた方がよいのでは」

「ふふん、術が使えぬとて天下の魔人がいつまでもへばっておれるか」

「…わかりました。 ところで少し気になった点があるのですが、立てますか?」

「ええい、本当に心配いらぬ! それで? 気になった点とは何じゃ?」

「これは推測なのですが……」

 そう前置きをしてから、出かけしなに偶然手に取った資料に記されていたこと。 魔の発生条件と、その対処の方法についてを話した。

 話の途中から七火の表情は曇りはじめ、話し終わる頃にはすっかり肩を落としてしょんぼりした態度になっていた。

「うぅ、すまぬ、私が余計なことを言い出さなければ……」

「遅かれ早かれどっちみち外に出る必要があったことに変わりはありません。 それにここから無事に出られれば同じことです」

 申し訳なさそうにしょんぼりする七火に、自分なりの励ましの言葉をかける。

「うん……」

 …………。

 こちらの言葉に頷きつつも、未だに申し訳なさそうに目を伏せがちな七火の頬を左右から引っ張った。

「…ほっ!? き、貴様にゃにを!?」

「貴女がそんな顔をしていると俺の調子も崩れるのですが」

「ううぅ、うるしゃい!」

 七火は自身の頬を抓んでいた俺の手を振り払うと、建物の影から陽光の下へと飛び出す。

「ゆ、行くぞ梨句よ。 さっさとこの忌々しい空間から脱出するのじゃ!」

 若干の空元気感はありながらも、元の威勢を取り戻した七火は大股歩きに進み始めた。

「その意気です、七火お嬢様」

 

 ……それにしても。 まるでこの状況を予期していたかのように、こうも都合よく魔障の対処法を得られるとは、これは単なる偶然なのか……?

 ……いや、今は兎に角ここから出ることだけ考えるんだ。

 俺は駆け足で七火の背中を追いかけた。

 

 

「やはり同じ場所を歩いていますね」

 しばらく真っ直ぐに歩いて、再びさっき休んでいた時の地点に戻って来てしまったことで、何度も同じ場所を巡っていることを確信する。

「ではここから始めましょうか」

 たしかあの資料には、鏡の前で待機した後に6回道を曲がれと書かれていた。 曲がる道順に関して記載がなかったため順番はどうでもいいのだろう。

 そして雨宿りの後に曲がった道順は、たしか右に2回曲がって、行き止まりだったので左に曲がって……、右、右、左、右、左、右の順番で曲がったはずだ。

 その道順を元に戻るのだから、東方向に左、左、右、左、右、左の順番で曲がればいいという事になる。

 資料には、その先にも何か但し書きがされていたが、ひとまず書かれていた通りに進んでみることにした。

 空を見上げ方角を確認してから、元来た方へと歩を進めはじめた。

 

 

 少し歩くと最初の十字路が現れた。

 それを左に曲がり、次の分岐をさらに左へ。 同じ要領でその後の分岐点も来た時と逆の順番で曲がる。

 そして最後の曲がり角を左へ曲がると……、

 ……出発地点にあった建物が再び目の前に現れた。

「なっ…、元の場所に戻って来てしまったようじゃぞ!?」

「……」

 しかし後半の何か重要なことが書かれていそうな箇所を読み損ねている以上、やはりと言うべきか、正直こうなる予感はしていた。 

 やはりあの読み損ねた但し書きには、何か別の条件が描かれていたのだろうが、それは何なのか?

 ここが鏡の中の亜空間だというのなら、そこに何らかのヒントがありそうだが。

 口元に手を当てて考え込んでいると、隣にいる七火に服の袖を引っ張られた。

「の、のう梨句、さっきから気になっておったのじゃが、文字が全て鏡合わせの様になっておらぬか?」

 七火は近くにあった道路標識を指さして言った。

「ええ、先ほど俺もそのことに気付いてそれで……」

 そこまで言ってハッとする。

 ここが鏡の中の世界で全ての事象が反転しているというなら、もしかすると道順もその対象に含まれているのではないか?

 だとしたら、右、右、左、右、左、右の順番で道を曲がってここに来てしまったのだから、それを反転して左、左、右、左、右、左の順番で戻れば帰れるということになる。

 …つまりは来た時と同じ道順で曲がるだけ? しかしそれだとあまりに…。

「…単純すぎる」

「…? 何がじゃ?」

「…いえ、何でもありません。 それより、少し思いついた事があるのですが」

「も、申せ!」

「仮にこの空間が鏡の中の世界だとした場合、もしかすると曲がるべき道順も反転しているのではないでしょうか? ということは、結局は来た時と同じ道順を進めば良いだけ、という可能性があります」

「よ、よく分からぬがこの空間から出られるならば何でも良い、早う行くぞ!」

 七火は焦燥感に駆られた表情で言った。

 何にしても今は単純でもなんでも、考えられる手段が他に無いのだからこの方法に賭けるしかない。

 そう頭の中で意味のない葛藤をしながらも始点を定めて、そこから行きと同じ順番で道を進む。

 そうして再び最後の曲がり角までやって来た。

 頼むから、どうか単なる取り越し苦労であってくれ。

 ……だがそんな思いとは裏腹に、最後の曲がり角を曲がった先に見えたのは、代わり映えのしない赤い十字路が遥か遠くまで広がっている光景であった。

 悪い予感が的中してやはり来たかという冷静な反応と、完全に閉じ込められて出る方法が無い、という絶望に似た焦りが同時に去来し、混乱しそうな頭で原因を考える。

 

「と、途中で間違えたのではないのか?」

 七火は苦し紛れのような引きつった笑みを浮かべて言った。

「……そうかもしれません」

 いや、そうであってくれ、というのが本音だ。

 そうでなければ……、いや大丈夫だ、きっと帰れる。

 そう、今のはたまたま曲がる道順を間違えただけ。

 次にしっかり正しい順番で道を曲がれば今度こそ脱出できる。

 そんなちょっとした淡い希望を抱きながら、俺たちは再度、注意深く”行きの道順”を行く。

 そして最後の曲がり角に差し掛かった。

 大丈夫だ、今度は絶対に間違えていないはずだ。

 緊張に身体が強張り、目を閉じて祈るようにして十字路を左に曲がった。

 

 しかしその祈りはすぐに打ち砕かれることになった。

 目を開けると、やはり見渡す限りの赤い迷宮がどこまでも続いている。

「っ……、こ、こんなことが」

「り、梨句…….」

 あまりの絶望に身体の芯から冷たくなっていくような感覚に襲われる。

 俺は無言で七火の手を引き、足早に再度の脱出を試みる。

再び元の世界に帰ろうと試みる。

 左、左、右、左、右、左。 今回こそと、確信を持って曲がる。

 ……また戻って来た。

「っ…も、もう一度試してみましょう」

 混乱する思考を必死に抑えつつ、それでも冷静さを失った頭でまた試す。

 ……また駄目だった。

 もしかしたら、反転していない元の道順の時に間違えていたのかもしれない、と逆でない道を試す。 

 …出れない。

 逆を試す、……やはり戻れない。

 ここまで来ると、もはや神頼みでしかなかった。

 

 ・ ・ ・

 

 どれくらい歩いただろうか。

 結局あれから、考え得る全てのパターンを試してみたが、どれも上手くいかなかった。

 万策尽き、歩き疲れてもやはり夕日は沈まない。

 ただどうしようも出来ない現実と、”出口のない、赤く染められた無機質なコンクリートの迷宮”だけが目の前にあった。

 この絶望的な状況と、熱さと疲労から既に心身ともに限界に近付きつつある。

 もう二度とここから出られない、という最悪の結末が疲弊しきった思考を支配する。

 いや駄目だ、俺が弱気になってどうする?

 一旦少し頭を冷やさなければ、そう思って後ろを振り返った。

 七火は俯き加減に地面を見つめ、その表情は普段とは対照的に暗く沈んでいた。

「お嬢様、少し休憩にしましょう」

 苦し紛れにそう問いかけるものの、しばらく何も言わずに俯いたままだった七火は言葉を区切るようにして口を開く。

「……すまぬ、私のせいじゃ」

 弱々しく、そうポツリともらした七火の目には涙が溢れていた。

「……っ、わたしの、わたしのせいで……っ、こんなことに」

 絞り出すようにそう言って、その場にへたり込んだ七火の頬を伝って涙が零れ落ちた。

 俺は七火の傍に膝を付いてしゃがみ込み、肩を震わせながら嗚咽を漏らす七火の肩に手を置いた。

 そこから何か言葉を発しようとしたが、何もかける言葉が見つからなかった。

 励まそうにもそのための材料がない。 自分自身これからどうすればいいのか分からず、絶望的な考えばかりが思考を反芻していたからだ。

 もはや万策尽きた。

 このままこの隔絶された赤色の空間で朽ち果てて、永遠に近い時を揺蕩うしかないのだろうか。

 俺はそんな無力な自分に、そして沈むことなく永久に代り映えすることない夕日に絶望しながら、ただ項垂れて目を閉じるしかなかった。

 

 

 

 ……視界が暗闇に包まれる。

 久しぶりに見える別の景色。

 これでもう、何もかもお終いなのだろうか。

 ………。

 …しかしこんな中でも、直前まで見ていた夕日と影が忌々しく瞼の裏に焼き付いて離れない。

 それは西方向に浮かんでいた夕日と、そしてこちらに向かって伸びる影は……、これは七火の影だ。

 夕日を背にしていていた七火の影がこちらに向かって………。

 

 ……っ!!

 そうだ…、そもそも俺たちは今まで何を目印にして歩いていたんだ…?

 目を開き、顔を上げて灼熱の夕日を見上げた。

 そう、決して沈まない”西日”だ。

 加えて、もしここが推測通り鏡の魔によって作られた亜空間で、文字や道順と同じように”太陽の位置”すら鏡写しの対象であったとしたら……っ!

 俺は七火の手を取って立ち上がった。

「お嬢様、最後にもう一度だけ試したい事があります」

 こちらの急な行動に、戸惑いと驚きの表情を浮かべる七火。

 だが少しの時間差を置いて、言葉の意味を理解するとその表情が戸惑いを抜いた驚きに変わる。

「ほ、…本当なのか?」

「一応自信はあります、付いて来てください」

 これが文字通りの正真正銘、最後の賭けだ。

 俺は七火の手を取ったまま歩き出す。

 だが今度は今までとは逆に、”太陽が照る方向に向かって”だ。

「そ、そっちは逆じゃぞ!? ”元来た方角”に行かねばならぬのではなかったのか!?」

 つまりだ。 行きと同じ道順に曲がる、そこまではいい。

 しかし七火の言った通り、当然それは元来た本来の方角である必要がある。

 だからこそ、今までずっと夕日の位置を目印として、それを背に元来た東方向を目指そうとしていた。

 しかしここは怪異魔障によって作られた鏡の中の亜空間。

 この”太陽の位置すら反転した鏡合わせの世界”においては、今までの方法では”真逆の西方向に歩を進める”ことになってしまうのだ。

 もちろん太陽だけでなく方角までも反転していて、この推理が大外れの可能性はある。

 だがこれほどまでに大規模な空間の生成という現象を、それも半永久的に発生させ続けることなど、例えこの”魔の類”がいかに強大な存在であったとしても、果たしてそうすんなりと出来るものだろうか?

 目に見える太陽の位置や、実際に辿った道順は反転させることは出来ても、概念たる方角までは変えることは出来ないのではないか?

 今はその怪異魔障の”魔力の限界”という可能性に全てを賭ける。

 もしこれで駄目だったら、今度こそ完全な詰みだ。

 しかし自分の中にある種の確信を持ちながら、迷うことなく十字路を左、左、右、左、右、左と、”夕日の上る東方向”へ順々に曲がってゆく。

 いつの間にか小走りなりながらも、とうとう最後の曲がり角までやってきた。

 目を閉じて息を吞み、意を決して最後の道を曲がる。

「頼むっ……!」

 祈りながら、ゆっくりと目を開いてゆく。

 

 そして目を開いた時視界に入って来たのは、

 雨宿りをしていた時に目の前にあった、長い長い直線道路だった。

 

「……!」

「あ、ああぁぁ…! あ、あの空間から抜け出すことが出来たのか!?」

「はい、何とか…」

 普段通りそう手短に答えて見せるが、内心は七火と同じく非常に安堵の気持ちが大きかった。 それこそ一旦地べたに座り込みたいほどに。

「ううぅ……、よがっだ、本当によがっだのじゃ……」

 今日一日ですっかり涙腺が緩くなってしまったらしく、七火は泣きべそをかいている。

「あとは『全身が映るほどの大きさの”もの”』に触れれば元の世界に帰れるはずです、今の場合だと先ほどの雨宿りをしていたあの場所ですね」

 そう言って、直線に100メートルほど離れた前方のショーウィンドウを指さした。

 あれから、もうとうに半日以上は経っている。

 色々ありすぎて、さっき4人で雨宿りしていたのがもう随分と昔のことのように思えた。

「……しかし一体どういう理屈であの摩訶不思議な空間を抜け出せたのじゃ? 私にはもう何が何やら」

「詳しい話はまた後で、今はとにかく一刻も早く元の世界に戻りましょう。 …嫌な予感がします」

「むぅ、分かった」

 こちらの真剣な様子に何かを察したか、七火は大人しく引き下がった。

 これであの『全身が映るほどの大きさの”鏡”』に触れれば、元の世界に帰れる。 あともう少しなんだ。

 だというのに、ここにきて俺の中になぜか再び焦燥感が生起しつつあった。

 いや、それどころか歩を進めるごとに嫌な予感は増していく。

 この途轍もなく嫌な感じは、前方のショーウィンドウから感じているものではない。

 元来た方からのものだ。

 前方のショーウィンドウに自分たちの姿が小さく映るくらいの距離までやって来たところで、俺は何気なく後ろを振り返る。

 すると遥か後方に、夕日を背にした、この”鏡の魔”に遭遇する直前に見た”黒い人影”が佇んでいた。

 『捕まればもう二度と外には出られない』

 朝読んだ文章の最後の文言が脳裏をよぎった。

 全身に総毛立つような悪寒を覚えながらも、なんとか言葉を紡ぎだす。

「っ…お嬢様、走りましょう。 俺の先を走ってください」

「藪から棒になんじゃ、というかもう足がくたくたなんじゃが」

「早く」

「しょうがないのう」

 小走りで駆け出し、肩越しに後ろを振り向く。

 同じように影もこちらに向かって動き出していた。

 

「お嬢様、全力で走りますよ」

「わ、わかった…!」

 七火の脚が速まり、その背中を追う形で俺が走る。

 瞬く間に全力の速度へと達し、グングンと鏡との距離が近づく。

 そして自分たちの顔がなんとか視認できるほどの距離にまで迫って来た。

 前方のショーウィンドウには、走ってくる自分たちの姿しか映し出していないが、確実に背後から何者かの気配が距離を縮めて来ているのを感じる。

「ひぃっ!? 梨句! 後ろから何かが追ってきてるのじゃ!!?」

「いいから前だけ見て走れ!!」

 ショーウィンドウまで25メートルほどの距離まで迫る。

 後ろから息遣いが聞こえるほどの距離まで”それ”は迫って来ているが構わず必死に走る。

 もはや後ろを振り向いている余裕すらない。

 気配がもうすぐ真後ろにまで来ている。

 だがショーウィンドウまでは、まだあと15メートルほども距離がある。

「駄目だっ、間に合わない……!」

 また、あの場所に戻されるのか……?

 あと、ほんの数メートルなのに、それがあまりにも遠い。

 逃げきれない。

 この分ではショーウィンドウのほんの少し手前で二人とも捕まってしまうだろう。

 いや、もしかすると最初からそれさえ計算の内だったのかもしれない。

 ゴールの寸前で捕まえて、こちらの希望を完全に打ち砕く、なんてのはよく有りそうな話じゃないか。

 だが、思い通りになるくらいなら、二人とも捕まるくらいなら……!

 …俺は覚悟を決める。

 意を決し、踵を返すべく身を固めようとした瞬間。

 前方からガシッと腕をつかまれ、結果的に地面を蹴る足が止まることはなかった。

 後ろ手に俺の腕を掴んでいる手は、ほんの少し前を走っている七火のものだった。

 その突然の行動に呆気に取られる俺に、七火はこちらを振り向くことなく、

「諦めるな!! あとほんの少しじゃ!!」

 必死な声色で七火はそう叫んだ。

 俺はその言葉の真意を理解できぬまま一瞬の間を置いて、大きな水音と共に七火の姿が忽然と視界から消えた。

 そして訳の分からない内に、次の瞬間には突然身体が浮遊感と共に重心を失い、冷たい水の感触が全身を包んだ。

 

 

「…ぷはっ!?」

 水の中を漂っていたのはほんの一瞬。

 すぐに身体に重心が戻り、ひざまずいた状態ながらも慌てて上体を起こして周囲の状況を確認する。

 七火も同じような状態だった。

 すぐ後ろまで迫って来ていた何かの姿はもうない。

 そして空は暗く周囲にはすっかり夜の帳が落ち、俺と七火は二人して水たまりの上で全身ずぶ濡れの状態になっていた。

「い、一体何が……」

 この水たまりは、さっき雨宿りをしていた時に目の前にあったものだ。

 水面はまるで『鏡』のように、呆気にとられた自分の顔を映し出している。

「そうか、水面が鏡の役割を…… 「あーっ!!! やっと見つけましたわ!!!」

 と、そんな俺の耳に聞きなれた声が響く。

 それは眉を吊り上げ、カンカンに怒った様子のいのりだった。

「一体どこをほっつき歩いていましたの!? 駅で待ってても全然来ないし探しましたのよ!? どれくらい探したかですって!? それはもう、さざれ石が巨岩になってそれが苔がむすくらいに長ーい時間を……、って二人そろってその酷い有り様は一体…」

「い、いのりぃ、会いたかったのじゃ……」

 いのりが話し終わらない内に、いのりに抱き着いた七火はその胸元に顔を埋め、めそめそと泣き始めた。

「……あ、あら?」

「だ、大丈夫…? 一体何があったの?」

 戸惑ういのりに抱きついたままの七火に、小詠が心配そうに声をかけている。

 そのやり取りを見て、ようやく自分たちが元の世界に帰って来られたのだという実感が湧いた。

 

 

 電灯が周囲を微かに照らす夜道を歩きながら、さっきの出来事をいのりと小詠に話した。

 俺と七火は半日近くはあの赤い世界をさ迷っていたはずだが、聞けばいのりと小詠がこちらと離れていたのはほんの40分ほどの事だったという。

 

「そういえば、よくお気付きになりましたね」

 歩きながら、少し前を歩く七火に話しかける。

「ん? 何をじゃ?」

「水たまりが鏡の代用になるかもしれない、という事にです」

 雨宿りをした店先のショーウィンドウが魔の発生条件になったという所までは確信していたが、それと同時に足元の水たまりまでもが条件を満たしていた事などは、あの時はおよそ見当も付かなかった。

 しかしあの赤い世界から抜け出す直前の七火は、口調的に明らかにそのことに気付いていた。

「ん……、ま、まあな」

「一体なぜ?」

「えっと……。 ま、まあ私の明晰な頭脳をもってすれば訳もない事じゃ」

 一瞬視線を彷徨わせ答えに迷った感じの七火だったが、すぐにいつも通りの口調でそう返した。

「は、はぁ…」

 結局それ以上理由を追求する気にはならず、その元気も無かったのでその話はそこで終わった。

 

 

 家に帰り夕食と風呂を済ませて、三人がすっかり寝静まった後の深夜。

 かたす界に戻った際に提出するための報告書、『うつつ奇聞譚』に今日の出来事を書き記していた。

 そういえば朝に見た資料を改めて見返してみようとした所、まるで最初からそこに存在すらしなかったかのように、忽然と姿を消していた。

 この不可解な現象の理由として考えられるのは、そもそもあの資料の存在自体が怪異魔障の一部だったのではないか? という仮説だ。

 怪異魔障の側として考えた場合、ループする広大な亜空間を構築するなどという、あれほどの強大な能力の発現を可能とするためには、能力のどこかに制限を付けて魔力の消費を抑制する必要があったのではないか?

 すなわちその制限こそが、鏡の世界内で方角を変えられないことであり、そして事前に対象にある程度の情報を与える必要があったという事だ。

 そう考えればあの攻略法をこれほどタイミングよく手にした事といい、あまりに出来すぎな状況も”一応は”合点がいく。

 そしてもしこの考えが正しいとすれば、それは裏を返せば魔の類には怪異魔障を引き起こす際に必要な魔力のリソースにやはり限界があり、それを超えて魔力を発揮するためには、何らかの弱点を用意しなければ強力な怪異魔障を起こすことが出来ない。

 しかしそうなって来ると、つまりは朝の時点で既に魔に魅入られていた事になってしまうな……。

 探索に出て早くも初日でこんな目に逢ってしまうとは何んとも幸先が悪いと考えていたが、もしかすると魔の類に偶然出会ってしまったというよりも、俺たちが魔を引き寄せてしまっているという表現の方が実態に近いのかもしれない。

「……」

 疑問が次々と浮かび尽きないが、なんにしても今日は疲れたからもう寝よう。

 そう思い、報告書を閉じてこの日の作業はそこで終わることにした。

 

 

 第1話 【鏡ノ魔】 完

 

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